霧立越ドキユメント
ガゴが岩屋物語
ガゴが棲んでいた
白岩山岩峰の北に位置する日肥峠から、大きく西南方向に下がる尾根の奥深くには「ガゴが岩屋」、「阿弥陀が岩屋」と呼ばれる岩屋群がある。その岩屋には、昔「ガゴ」が住んでいたと言い伝えられている。
「ガゴ」とは一体何者であるか、今では知るよしもないが子供の頃、悪さをすると「ガゴが来るぞー」と脅されていたものである。昭和20年代頃まで、鞍岡の波帰や椎葉では子守唄に「ねんねせんとガゴがくるぞ~」と唄っていたという。
ガゴの語源について調べてみると、弘仁年間(810~824)に編集された日本最古の説話集「日本霊異記(にほんりょういき)」に「ガゴ」を思わせる記述がある。おどろおどろした教訓めいた話であるが、京都の元興寺の梵鐘に鬼がいるという項で「ここらにも、乳飲み子が強う泣くに、ここへガゴウゼが来るというと泣きやむぞ」とある。これは、当地で唄われていた子守唄の「ねんねせんとガゴがくるぞ~」に通じる。
ガゴウゼは、乳飲み子も黙る鬼のように恐い存在であり、神仏のように加護してくれるものとして語られたようである。この「ガゴウゼ」が「ガゴウ」へと転化して訛ったものではないかと考えられる。京都の鬼の説話がどのようにして九州山地の奥深くに伝えられたのであろうか。
その「ガゴ」が棲んでいたという「ガゴが岩屋」に、筆者も昭和40年代の中頃、猟師さんたちに連れられて見に行ったことがある。当時の記憶を辿れば、岩屋の中は8~10畳くらいの空間があり、床も平らで天井は高く、人為的に加工された部分もあるのではないかと思ったものである。その近くに「阿弥陀が岩屋」と呼ぶ岩屋もあった。
当時は、あまり興味を持たず、只、鬱蒼として恐ろしいような原生の森と、歩くのに疲れ果て、やっとの思いで帰りついた記憶だけが残っている。以来30数年の歳月が流れた。
再び「ガゴが岩屋」
近年は、地域で伝承されている民俗芸能などに興味を持つようになった。鞍岡には心影無双タイシャ流と呼ばれるものや臼太鼓踊りなどの民俗芸能が伝承されている。タイ捨流は、人吉の丸目蔵人(1540~1629 )が開祖であるが、鞍岡に伝承されているタイシャ流は、正保二年(1645)に鞍岡の山村四兵衛が伝授したとされる巻物(秘伝書)が神格化されて保存されている。その巻物には[九州肥雲働山、一能院友定]と記され「柏村十助殿」となっている。巻末の伝尾判には正保二年に鞍岡の山村四兵衛が伝授し、その後、椎葉の尾前地区の人が伝授、最後に安政年間で鞍岡の人が伝授したことが記載されている。(注:写真は那須家所蔵の巻物。他にも鞍岡にもう一巻、椎葉に二巻同様のものが確認されている。)
一能院友定は歴史上に見えない人物であるが、肥雲働山の「山」は、ある宗派の本山、一能院は宗派の院と読むことができる。
1995年10月に開催した「タイシャ流350年と霧立越」
のシンポジウムでタイ捨流に詳しい熊本県文化財保護指導委員の渋谷敦氏は「丸目蔵人が没して七年後の寛永12年に丸目蔵人の墓前で自刃したといわれる伝林坊頼慶という山伏がタイ捨流の棒術であった」といわれた。
このようなことから丸目蔵人のタイ捨流が山伏の武術となって伝林坊頼慶→―能院友定→柏村十助→山村四兵衛へと伝授され、その後正保二年から伝尾判に記載されている人物に次々と伝授されて鞍岡で民俗芸能として今日まで伝承されるようになったものと思われる。
タイシャ流は「術」であるといわれる。昔、術に長けた人は「気合とともにイワナバダキ(岩(いわ)茸(たけ)の生える崖、波帰集落の対岸にある)に一気に飛び上がった」とか、「六尺棒を指先一本で地中深く押し込んだ」とか、「奥山でエイエイという声が聞こえていたがいつの間にか家の囲炉裏端に座っていた」とか、「試合の時、川で六尺棒を塩磨きして清めるがこの時濡れた棒をしごくと水が三間先に飛んだ」などと、こうした昔話を子供の頃聞かされていたものである。寝室には、枕元の畳を短くしてその縁に棒が納められていたそうである。
このタイシャ流は、毎年7月15日、鞍岡祇園神社の夏祭りに奉納される。奉納というよりも、タイシャ流がなければお祭りが成立しない仕組みが作られている。すなわち、お神輿(みこし)の御神幸(おみゆき)は、タイシャ流の棒術隊がお神輿(みこし)を警護して進行し、途中数箇所で「たてる」
(殺陣(たて)の意かまたは隊列を立て直す意かもしれない)と称して棒術の基本動作と見られる「道棒」を使うことになっている。また、御神幸(おみゆき)行列が終わると神殿横の広場でタイシャ流の極意とされる「白刃」という立会いの型を演武する。真剣と六尺、三尺棒に
よるこの「白刃」の演武が秘伝書に「目録」として書かれている演目の一部となっている。
こうしたことがお祭りの基本型となっていることから今日まで唯一鞍岡にタイシャ流が伝承されているのである。
(注:文中のタイシャは鞍岡に伝承されているものを指し、タイ捨は丸目蔵人のものを指す。詳しくは第二回・霧立越シンポジウムの記録に掲載)
また、もう1つの民俗芸能である臼太鼓踊りは9月の秋祭りに行われるもので、「ヤンボシ(山伏)踊り」や「山伏問答」がある。
「山伏問答」は、山伏装束をまとった2人が「まこと本山の山伏ならば御身に付けたる○○のいわれを御開かれ候」と問答を行うのである。
これは、文治3年(1187年)源義経が源頼朝に謀反を疑われて奥州平泉へ落ちのびる途中、山伏姿で安宅の関を越えようとした時、関守富樫泰家に見咎められて詮議の問答が始まったとされる場面である。
こうしたヤンボシ踊りや山伏問答は「鞍岡と椎葉のみに伝承されている」と、永松敦氏(椎葉民俗芸能博物館学芸員、現宮崎公立大学助教授)は霧立越シンポジウムで発表された。鞍岡にはヤンボシという地名もある。まさにそれは山伏を意味している。
このように鞍岡と椎葉には山伏に関する民俗芸能や伝説、地名などがあることを考えると、鞍岡と椎葉を結ぶかつての尾根越しの道「霧立越」にも山伏の活躍していた場所があったのではないかと思うようになったのである。
そして「ガゴ」が棲んでいたとされる「ガゴが岩屋」は、修験者がいたのではないか。修験者の特定の人物を指してガゴと呼んだのか、修験者そのものをガゴと呼んだのか、或いは修験道の説話に「ガゴウゼ」があり、その説話からきた言葉なのか、いずれにしても「ガゴウゼ」から「ガゴウ」になり「ガゴ」と言われるようになったもので山伏に関する言葉だと思うようになった。幻の滝の発見でその思いはますます強くなった。
幻の滝」とガゴが岩屋
幻の滝は、2001年5月17日、霧立越の歴史と自然を考える会が木浦谷の奥深くを探検して発見した滝である。(
「幻の滝発見」のニュースが流れると、 その麓の木浦集落の人たちからいろんな伝説が寄せられるようになった。
「その昔、ある男がこの谷に迷い込んだ。すると滝の近くに家の間口が5間もある大きな家があったげな。その家に上がり込んだら床の間に高お膳のご馳走が準備してあったと。男は恐ろしくなって逃げ帰ってきたげな。その時、そのお膳を食べなかったのでその男には福が授からなかったげな」という話や、「ある時、谷に迷い込んだら、一面にソバやキビが実っていた。そのキビを一房摘んで帰り、明くる日そのキビを摘もうと連れだって行ったら、ソバもキビもなく一面にスズタケだけが広がっていた。そして、そのスズタケは首がみんな摘み取られたようにもげていたげな」とか、「遠くから見ると谷に白い衣のような布がかかっており、近づくと消えてしまう」とか、「谷に入り込むと鶏の鳴き声が聞えたげな」或いは「谷の奥には大きな滝があったげな。その滝壺にはオシドリが浮かんでいて男がそのオシドリに近づき、何本矢を射かけてもそのオシドリには矢が当たらなかったげな」などという不気味な伝説を聞かされた。
幻の滝は、急峻な崖に囲まれて人々を近づけない険しさがあったことから知られていなかったものであるが、同時に薄気味悪い伝説の地のため麓の人々が近づけなかったのではないか。滝には何か曰くがあったに違いない。そう思うようになった。
その後、滝への歩道を開設し、報道関係者などを滝にご案内した時、複数のTV局のリポーターが「この滝はなぜか普通の滝とは違う気がする」と言い出した。「とても心身がやすらぐ」という。そこでシンポジウムを開催して改めて調査したところマイナスイオンが10万という異常に高い数値を示すことが確認された。 もしかして、この滝は山伏がその独特の鋭い感覚でマイナスイオンを感じ、エネルギーを高めるために修業の場としていたのかも知れない。そう考えると「ガゴが岩屋」が浮かんできた。霧立越ルートの東側に幻の滝、西側に「ガゴが岩屋」である。宿営地と修行地だ。山伏は修験道で、山岳を神仏の世界として、高い山や険しい崖、深い谷を行き来して修行することで神仏の声を聞き、神仏の境地に近づくとされていたのだ。「幻の滝」と「ガゴが岩屋」は彼らにすると近い場所かもしれない。
修験道は、常人離れした念力や技を持ち、武装勢力ともなっていたので為政者も恐れていた集団である。明治政府は、明治5年(1872)に修験道廃止令を出した。全国の山伏に修験道の活動をやめさせ、且つその痕跡をも消してしまったのである。九州では英彦山や求菩提山などがかろうじてその痕跡をとどめているのみである。
山伏の武術に転化したと思われるタイシャ流や山伏問答を伝承している椎葉や鞍岡の民には、霧立山地の険しい山岳地帯から里へ降りて暮らすようになった山伏の血が流れているのかも知れない。
このように考えると、どうしても「ガゴが岩屋」を再度確認しておかなければならないと思うようになったのである。
ガゴが岩屋探索
2002年4月、思い立って単独で白岩山の奥地に入り込んでみた。椎葉の尾前集落から椎矢林道を上がり、右して椎葉白岩林道に入り白岩岩峰の基底部近くまで入った。椎葉白岩林道は椎矢林道から分岐してその奥までは8.2kmもあり、路面の至るところが崩落して車での通行は不能のため歩いて入ったが、その山の深さに圧倒された。
そして、白岩山岩峰北部から西南に下る長い尾根は規模の大きい石灰岩地帯であることがわかった。その尾根を少し探索してみたが、かつて「ガゴが岩屋」を訪ねてから三十年以上の歳月が流れ、天然林の深山幽谷の地にも林道ができ伐採されているので付近の自然環境は
すっかり変わって当時の記憶の場所は定かでない。
翌2003年5月、若葉が茂る前にもう一度探そうと単独で出かけた。この時は、白岩山岩峰から大変な思いで険しい白岩谷を下りて林道まで下った。
2004年は、3月20日から4月8日、17日、21日、28日、30日、5月5日、7日、14日、21日と、若葉が茂る前に集中的に探索を行った。その結果3つの岩屋を確認した。記憶をたどればもう1つあるはずであるが、それはまだ見つけることができない。
未登録種の植物を発見
岩屋の調査を重ねるにつれてオオバウマノスズクサ、クロフネサイシン、カンザシギボウシ、キリンソウ、シギンカラマツソウ、イワキンバイ、イブキツモツケ、ダンコウバイ、キビノクロウメモドキ、キリタチヤマザクラその他多くの植物の希少種や固有種も見つかり、植生が非常に豊かであることがわかった。これらの植物については、毎週一回現地へ出向いて花の写真を撮影続けている。ウラジロヤマウコギについては、宮崎県にはないとされている植物である。
一方では、 鹿等の野生動物が異常繁殖してその食害により、貴重種はもとよりスズタケまで枯死し、自然生態系に大きな影響を引き起こしていることもわかった。現地は、尾根の部分に天然林、尾根より少し下りるとすぐ人工林となっている。人工林地には下層植物がなく、尾根のわずかな天然林地帯のスズタケが唯一の冬季の餌となっているが、鹿猪等の異常繁殖により、天然林のスズタケはほとんど茎から噛み切られ枯死している。これは、飢餓状態に陥った
時の異常行動ではないかと思われる。このため、あらゆる樹木の皮を餌としているので樹木の食害が進行している。岩場に育つ植物の希少種も大きな食害を受け深刻な状況である。3月から4月にかけては、10頭以上の鹿の死骸が確認できた。餌不足によるものと思われる。
巻貝化石の路頭を発見
もうひとつ特筆すべきは、貝の化石の路頭を発見したことである。ここでは、巻貝のような化石が風化されて無数に露出している。この化石の路頭は、石灰岩の尾根にあり、約100mくらいの部分に無数に露出、或いは転石の中に見られる。当初は、植物の植生ばかりに気
をとられていたが、何度も通るうちに輪のような模様のある石に気づき、よく観察したところ巻貝の化石であることが分かった。
その後、化石のサンプルを宮崎県北部森林管理署、宮崎県立総合博物館へ持参して報告した。この化石は、マーチソニアのSPで二畳紀、ペルム紀(2億4千5百万年~2億9千万年)の中ごろの示準化石ではないかといわれ、まだよく分かっていないことが多いそうである。
このマーチソニアは、岐阜県大垣市の北西部に位置する赤坂町の金生山に産するということであるが、赤坂町金生山は、採石場となって、今回のように地表に路頭があり、風化された化石を産するのは、日本唯一の場所ではないかということである。
右図は、昭和33年、工業技術院地質調査所発行の鞍岡の地質図であるが、白岩山の石灰岩の層が記されている。その上の水色で塗りつぶした部分は、筆者が記入したもので、今回の調査で確認した石灰岩の層である。この層は、白岩谷と日肥谷の吐合まで石灰岩の尾根となって続いているが、地質図には石灰岩の層は記載されていない。化石の路頭はその水色の部分に存在する。現地は、地形的に人が入り込むことが困難であったために知られていなかったものではないかと思われる。
古銭を発見
調査を進める内に7月25日、岩屋の中で古銭を発見した。古銭のあった岩屋は、最初に発見した沢沿いの小さな岩屋で、この岩屋に入っていたモニターツアー参加者とツァーサポーターの梶原秀子が岩屋の中の岩壁に文字が刻んであるのではないかと見入っていて、ふと視線を地面のほうにたどった時、そこに古銭があった。古銭は、寛永通宝で寛永13年(1636年)に創鋳、万治2年 (1659年)まで鋳造され、 江戸時代を通じて広く流通した銭とされる。古銭を詳しく調べると鋳造した年代や鋳造所が特定できるようである。古銭は、伝説のガゴが実在したことを裏付けるものである。そして、ガゴは、深山にこもっているだけではなくて、外との交流があったことを古銭は物語る。やはり、ガゴは、全国を渡り歩いていた修験道に違いない。
陶器の破片を発見
何かと発見の多いガゴが岩屋であるが、8月1日は、岩屋ルート近くの湧き水を調べたところ茶碗のかけらが出てきた。茶碗の厚みが厚く、古い時代のもののようで、ガゴが使っていたものではないかと思われる。
ガコについては、仏家であり医師であり渓流師という福岡の新川玉泉さんは「岩屋とか鍾乳洞等は、歴史の裏街道を生きる歩き衆が良く利用していた。仮泊にはもってこいの場所だった様です。修験者(ほしゃどん)、巫女とか歩き巫女(昔の拝みやさん)、商日知(あきにゃひじ)りの毛坊主(商売をもする私度僧)、旅芸人の十嘘楽(とえらぎ)など、この世界に戸籍を持たぬ人々(殆どが年貢の重さに耐えかねて、跳散した百姓だったそうです)達が良く利用していたのが「ガゴ」だった」。という説を[kiritachi-ml]のメーリングリストで述べられた。また、写真家で熊を捜し求めて高千穂に移住したナチュラリストの栗原智昭さんは、「高千穂神楽の舞手を意味する「ほしゃ」の語源ですが、「奉仕者」の他に「祝者」の字を当てることもありますが…もともと神楽を各地に広めたのは修験道だったようですので「法者」(=修験者)に由来するとみて良いと思います。」という説を述べられた。8月28日にはガゴについて、夜なべ談義を行う予定である。
ガゴが岩屋は、以上述べたように、修験道などの歴史と共に、植物の植生や地層、化石、動物の生態等、自然や歴史の体験の場としてまことにすばらしいフィールドである。
今後、エコ・ツーリズムとして活用し、そのプログラムを開発したいものである。関係機関のご理解とご指導を切にお願いしたい。