ドキュメンタリー 「霧立越」
―新たなツーリズムの始まり―
西郷どん
養魚場でパソコンに向かっていた私の前に眼窩の大きい仁王像のような風貌をした不思議な男が現れたのは、秋の気配が漂いはじめた94年9月であった。髭の男はしゃがれ声で「西郷どんの歩いた道を辿っているのじゃが」と、手に持った地図を広げながらつかみかかるように話しかけてきた。霧立越の様子を尋ねているのである。
霧立越は、昭和初期まで宮崎県椎葉村から熊本県馬見原まで脊梁山地の尾根伝いを馬の背で物資を運んだ古道である。その昔、源平の戦いで破れた平家の落ち武者が椎葉に逃れた道といわれ、明治10年4月には西南戦役で西郷隆盛率いる薩軍が人吉に向かって敗走した。近年は通る人も途絶えてスズタケに覆われているのだ。
その男は、持っていたズダ袋の中からよれよれになった布きれと短い棒を取り出した。「薩軍の旗」と「西郷隆盛の指揮棒」という。「これを持って西郷隆盛の通った道を歩いている」というのである。旗はともかく指揮棒が本物かどうか知るよしもないが、この男はどうも尋常ではない。ひょうとしたように見えるが凛としたところもある。えたいの知れない掴みどころのない人物である。時として西郷隆盛信奉者に合うことがあるが不思議な人物が多い。昔、兵隊で幾度も死線をくぐりぬけてきた勇者なのかも知れない。
私は、霧立越を通った経験はなかったが、その山体や地形はイメージできていた。スキー場の調査で昭和55年3月から何度もヘリで上空から霧立山地を調査したり、地図を片手にスズタケに覆われた険しい原生林の中を歩き回り、霧立山地にスキー場適地を探したものである。今、スキー場は「五ケ瀬ハイランド」と呼ぶが計画当初は土地の名前を採って「霧立スキー場」と呼んでいたのだ。私は今でも「霧立」の方が良かったと思っている。
霧立越の様子は、村の古老からも昔語りに聞いていた。尾前春之十という尾前のばくろうさんが牛を引いて霧立越を越えて来た話、薩軍が霧立越を通る時に村人は女性たちを山小屋に隠したという話、村人が夫方に呼び出されて人吉まで薩軍の荷物を運んだという話なども聞いている。その時もらったという札がある。
札の表の上段には、縦に「銀拾匁也」或いは「銀五匁也」と記され、中段には横に「日州延岡」とあり、下段に「以此手形銀銭引替領内通用可致者也」と印刷されている。銀十匁札は松や蛇ようの絵柄、銀五匁札には鯉と水流のような絵柄が印刷されている。裏面には、上段に「山坂運送難渋之所柄就歎出之者也」とあり、下段に「會所預」と記され印が押してある。
私は霧立越を歩くというその男に興味を覚え、こうしたことを説明した。
話している内にしだいに「私も歩いてみたい」と思った。椎葉のどの辺りに下山できるのか見当もつかないが「一人では歩けない。そうだこの機会に通ってみるか」。渡りに船とばかりに案内役を買って出ることにした。甚だ心もとないガイドではある。
初めての霧立越
9月18日の朝、西郷どん(と呼ぶことにした)は、お供らしい小柄な1人の男を連れて現われた。昔の兵隊仲間か師弟関係のように見える。彼は、その日やまめの里からスキー場駐車場のカシバル峠までも7kmあまりを歩くという。カシバル峠までは、スキー場のアクセス道路として林道が整備されているが、かつての霧立越の歩道は林道の対岸にあった。今は誰も通る人はいないので藪の中である。そこを歩くというのだ。私は、それだけは遠慮したいと申し出た。
その夜、ホテルのスタッフから駐車場に不審な人物がいるという通報があった。出かけて見ると、西郷どんたちがテントを張ってカンテラの灯りで夕餉の準備をしている。駐車場に平然と野営をしているのだ。ますますもって不思議な人物である。
翌朝になった。初めて霧立越を歩くことになった頼りない案内者である私には緊張感がはしった。椎葉に親戚があり椎葉の地形に詳しい養魚場スタッフの吉村梅男君に無線積載車で椎葉側の下山予定地の林道に待機するよう命じて、携帯無線をリュックに入れ西郷どんの先頭に立ってカシバル峠から白岩山へ向かった。白岩山までは登山者も多く、毎年4月29日に山開きが行われて歩道が整備されているので快適に歩ける。
眺望のよい白岩山頂で休憩して地図を広げ、これまでの打ち合わせを確認し合う。彼らの地図には霧立越の縦断図や高低差に合わせた歩行予定時刻、各ポイントと目標地点、各ポイントから見た周辺の山々の方位など詳しく書き込んである。行動計画がとてもしっかりしているのだ。あまりにも用意周到な計画に、もしかしたら昔の軍隊の行軍を指揮した経験があるのではないかなどと地図を見ながら勝手に想像した。
いよいよ白岩山の奥へ足を踏み入れる。やはり霧立越の廃道はスズタケに覆われていた。ここから先は、「水呑」という地名の水場があるところまでしか入ったことがない。中学時代の夏休みに「水呑」で野宿して雷雨の一夜を過ごしたことを思い出していた。英語の先生と生徒数人で各毛布1枚を持って白岩山に登り「水呑」で野宿したのだ。雷雨となり雨を避ける為に木の枝を重ねて屋根をつくったがそれでもずぶぬれになり、雨のしたたり落ちる中で食べた飯ごう炊さんの焦げた飯の味や帰りの毛布が濡れて重かったことなどが思い出された。テントも持たずに随分無茶なことをしたけれども今は懐かしい想い出である。
「水呑」付近から更に藪をかき分けながら、馬道の跡らしい窪地を辿って進んで行く。道は尾根を右に左に廻りながらほぼ等高線上に延々と続く。あたり一面はブナの巨木が林立する原生のままの森である。どこまでも道の形はくっきりと残っているが、スズタケや潅木が道を塞いでいるのでなかなか前へ進まない。腰をかがめて右に左にスズタケを掻き分けながら時々地形図で現在地を確かめるが、巨木の葉陰で周りの山が見えず、現在地が分からなくなってきた。どれくらいの距離を歩いたのか地図上で読めない。地図に示された尾根を結ぶ歩道の線は正確ではないことが分かった。実際には尾根を右に左に廻りこんでいるのだ。
3時間程歩いた時、下りの道らしい窪みが見えた。そこで腰をおろして休息しながら思案をめぐらした。「このまま進むと扇山に行くだろう。西郷さんは、椎葉の尾前に出たのであるから、ここを下りたのではないか」という結論になった。霧立越のメインルートは尾前である。そこで、扇山ルートを外れて尾前へ出るであろうと思われるその道を下りはじめた。藪はいっそう険しくなり道は獣道のように細くなってきた。しだいに急斜面に入り込む。どうもこれは馬が通った道ではない。あまりにも急坂で荷駄が歩けるはずがない。どうやら道を間違えたらしい。
やがて植林地に入ってきた。植林地の中は、造林作業の為に切り開いたと思われる杣道があちこちに延びている。こっちだと思って行くとその道は途中で消えては無くなる。まるで迷路である。どの道をたどればよいかわからなくなった。
膝の痛みに耐えて
仕方なく地図で見当をつけて谷へ下りることにした。谷へ降りて、左の尾根に向かって進めば尾前に下る馬道に出会うに違いないという判断である。
谷に下る道は、急斜面である。木の根や潅木、蔓などに掴まりながら降りて行く。行けども行けども谷は遠い。霧立山地の奥行きは想像を絶するほど深いのだ。しだいに不安になってきた。やや谷が近くに見えだしたところで窪地を見つけ、そこで弁当を食べることにした。腰をおろすとどどっと疲れを感じる。西郷どんの部下らしい無口な小柄の男は、携帯用のガスコンロを取り出してコーヒーを沸かし、味噌汁を作り始めた。見やると装備がしっかりしている。「この人たちは山登りが好きなんだ」と思った。お裾分けのコーヒーは美味しくて疲れた体に元気を与えてくれた。
「さて、それでは出発しましょう」。食事が終わって立ち上がると膝にビリビリッと痛みが走った。急峻な斜面を延々と降りてきたので膝にきたらしい。斜面を下るにつれてしだいに痛みはひどくなる。下る方向を向いて歩くと痛みが激しくなる。横向きに歩くと楽だ。杖を頼りに痛みをこらえながら蟹のように横歩きで一歩一歩踏みしめるようにして下ると時々頭上に伸びる蔓が帽子を引っ張って落す。スズタケをかき分けたりくぐったりしながら降りていくが、近くに見えた谷はなかなか姿を見せいない。屈強そうな西郷どんもさすがに疲れたらしい。顔色が険しくなっている。皆んな足を引き摺りながら歩く。
ようやく清水の流れる深い沢に降り立った。流れの中に錆びた大きなワイヤーが岩の下に埋っており、一方の端は朽ちた巨木の根に捲きつけられている。伐採作業の時に使ったワイヤーらしい。撤収を忘れたのか、傷んで使えなくなって放置したのか。自然が痛々しく見える。「立つ鳥跡を濁さずだ。片付けておけばいいのに」と思った。ここで冷たい沢水を飲み、汗みどろになった顔を洗って一息入れる。
長く休むとますます膝が痛みそうだ。そうそうに疲れた体に鞭打って立ち上がり、沢を横切って道を探すがどうも見当たらない。山容があまりにも深く、現在地の把握ができない。しだいに夕暮れ色が濃くなってきた。無線で何度もコールするが下山予定地で待機しているはずの車からは応答がない。膝の痛みはますます激しい。まもなく歩けなくなるだろう。野宿し、翌日担架で運ばれる姿を想像する。
仕方なくそのまま沢を下っていくと、橋らしいものが木陰から見え隠れしてきた。「林道があるぞっ」。地図には記載されていない林道のようだ。森で迷った時、人工の施設に出会うとなんだか元気が出てくる。ようやく橋の下に辿りついた。そこから橋の上に這い上がって見れば、その林道は背丈ほどもある草や木が路面いっぱい生え茂り、ところどころ陥没したり路肩が崩壊している。近年だれも足を踏み入れた形跡がないようだ。「強者どもの夢の跡か」。しかし、歩くには獣道より楽である。この林道を伝って下ることにした。
雨が降りだした。その雨足はしだいに強くなってきた。雨に濡れながらしばらく行くと、はるか上の方から大きな崩落が起きて土砂は林道を突き抜け谷底まで落ちている。決壊した林道の赤茶けた崩落斜面に突き立つ岩を足がかりにしてようやく崩落斜面を抜けると道は尾根にさしかかっていた。その時、無線のコールが返ってきた。尾根に出た為に電波がキャッチできたのである。道に迷い隔絶された山中で無線の声を聞くと仏に会った感がある。とたんに元気がでてきた。無線でお互いに対岸に見える山や谷の様子などを説明しながら現在地を確認し合う。朽ちた林道の長い坂道を降りて行くとやがて無線で誘導した車の姿が視界に入った。「死ぬかと思ったよ。やれやれ助かった」と言いながらふらふらになった体を車のシートに沈めた時は、すでに体力の限界を感じていた。
霧立越のカオス
車は、夕闇せまる林道をひた走りに走った。やがて椎葉の人家の灯りが目に入ったころ、いつの間にか眠り込んでしまったようで気がついた時はとっぷりと日が暮れた我が家の前に車は止まっていた。ひと風呂浴びて、疲労こんぱいの体でコタツに入り酒を煽っていると、ブナの巨木が目に浮かぶ。紅葉のはしりのシロモジの黄葉、どこまでもくねくねと続く廃道、森の神秘的なたたずまいなどがつぎからつぎへと瞼に浮かんでくる。
その時「もし、道に迷わなかったら」、「もしかすると霧立越は素晴らしいピクニックコースになるのではないか」、そう閃いた。黄金色に輝くブナの紅葉、ドウダンツツジの真っ赤、コシアブラの白など豪華絢爛たる紅葉の中を色とりどりのリュックを背負って歩く多くの人々の姿が浮かんできたのだ。
想像をめぐらしていると「九州ブナ帯文化圏構想」のカオスが新しい芽を一気に吹き出してきた。霧立越にはいろいろな民俗の歴史がある。植物の植性も豊かで学術的にも特異な地域とされ、南限といわれる植物も数多くある。なによりブナの原生林が素晴らしい。学ぶものが多いのではないか。そうだ、ブナ帯文化圏構想のフィールドだ。あの道を整備してピクニックコースにしたらすばらしいだろう。酔いも手伝ってとてもわくわくするような気分になった。
九州ブナ帯文化圏構想とは、五ケ瀬町の観光振興計画の大きな柱である。1992年に町の長期ビジョンを策定することになり、私は策定委員会の会長に推された。この時、早稲田大学の後藤春彦先生(当時三重大学)やRVIアソシェーツの藤井経三郎先生などそれまでお世話になっている町づくりの達人に計画策定委員に参加をお願いし、町の実践活動家の集団で実行委員会を組織して討議をすすめた。計画の基本を「地域の光りの創造と発信」とし「1.地域の哲学を光らせる。」「2.地域の風景を光らせる。」「3.地域の心を光らせる。」の三本の「光らせる」を町づくりの理念にしょうということになった。そこで光りの柱を「九州ブナ帯文化圏」に求めたのである。
数日後、私はさっそく地元の村おこしグループに霧立越の可能性を話した。村おこしグループは、スキー場の調査やPR活動に積極的に応援してくれた青年達である。彼らはすぐに行動を起こし、地元のメンバー19人がさっそく霧立越を歩いたのである。皆んなも初めて霧立越を歩いたのだ。彼らは西郷さんの跡をたどらなくて扇山に向かって歩いた。扇山は登山道の整備ができているので楽に下山できたというのである。帰ってきて開口一番に「霧立越はすばらしい」とさかんに絶賛した。
頓挫した企画
年は明け95年の春になった。木々の新芽がしだいに膨らんで新緑の季節が近づいてきた。新緑の季節に霧立越をなんとか具体的にしなくてはと気があせるばかりである。思案に明け暮れるある日、気がついたら車で国見峠に上がっていた。国見峠からは霧立越の山々を眺めることができるのである。「そうだ、先ずは椎葉村の役場に行こう」とハンドルを切った。役場に到着して「霧立越についてお話しを聞きたいのですが」と申し込んだら助役さんが応対してくれた。助役さんは「それは面白い、霧立越は歴史の道でもあり私達も大切にしたいと思っている。少ない予算で少しずつ手入れをしているつもりだが、なんせ距離があまりにも長すぎるので手が回らないのですよ。やってみようじゃないですか」と嬉しい返事をもらった。そこで、椎葉村と五ケ瀬町で話し合いのためのテーブルをセットすることにして日程調整の委任をとりつけて役場を後にした。
95年4月20日。五ケ瀬町の助役さん、企画課長さん、係長さんを伴って椎葉村役場に出かけた。役場では2階の企画開発課隣の小部屋に準備されたテーブルに双方の町の関係者が向かい合って着席した。私は、まとめてきた企画書を取り出して霧立越の活用や運営などについての案を説明した。説明が終って椅子に座り「やりましょう」という声が上がることを期待してテーブルを見まわす。ところがみんなの顔が暗い。やがて「もっと調査をしてみないと」。「危険ではないか」などと言う声が上がった。「予算もないし」。「計画にも上がっていない」などと悲観的な意見が次々に出はじめた。最初に賛同してくれた頼みの綱の助役さんは、開会の挨拶の後、来客ということで中座されたままである。
とうとうこの案件は見送りという結論になってしまった。この席には役場のほかに私は、地元の村おこしグループのリーダー2名を誘っていた。彼らもがっくりしていた。閉会後、遅れてかけつけた助役さんは「あらあら、それは困った。なんとか方法はないものか」と腕を組んだ。「あのう、スズタケを刈り払うだけなら僕らでやってもいいですが」と村おこしグループから声が上がった。「そうだ。民間がやることには異論はない。予算はつけられないが、精神的な応援はやりましょう」とくだんの助役さんから慰めの声をかけられた。このことからボランティアでの歩道整備が始まることになったのである。
シンポジウムの仕掛
それから、下刈機を担いで歩道整備が始まった。白岩山に近いスズタケの多い部分から伐開するという荒削りの作業である。なんとか歩けるような道ができたので第1回の霧立越を5月14日として新緑の美しい季節に定めた。各方面に声をかけたところ多くの方々が興味をもって参加したいと連絡が入るようになった。報道関係者にも案内したところ手応えが感じられた。
けれども単なる山歩きだけではどうも面白くない。下山してから参加の皆さんの意見を聞こうと考えた。「下山後、椎葉村でシンポジウムを開こう。パネリストは、先ず椎葉の村長さん。それから駄賃つけの話に詳しい方。後は、当日参加者の顔を見てお願いしよう」というまことに行き当たりばったり方式である。この時パネリストの選定や講師依頼の交渉、会場の借り上げ等については、椎葉の助役さんが一手に引き受けてくださり助かった。村長さんと駄賃つけ唄の名人が無償で出席できるという。お願いに出かけることもなく決定した。これが「精神的な応援」と言われたことなのだと感謝した。
「椎葉ともう一方の馬見原からもパネリストが欲しい」。そう考えて霧立越の宿場町であった熊本県蘇陽町馬見原に出かけて心あたりのある数人の知人にお願いしてみた。ところが霧立越の歴史を知る人はほとんどいない。「一番詳しいのはあの人」と紹介頂いたのが工藤平次郎さんであった。まだ1度も合ったことはなく初対面であるがとにかく不躾に訪ねてお願いしてみた。代々の造り酒屋を営んでいる氏は、明治生まれの80歳台で高齢であるが、かくしゃくとしていた。
当初はいぶかりながら話されていたが、うちとけてくるに従い当時のことをかなり詳しく話してくださる。その内「シンポジウムには行ってもよい」という返事をもらうことができた。高齢のため霧立越は歩くことができないので当日は車で会場に送迎することにした。もちろん謝金なしでのお願いである。ところが氏はシンポジウムの当日私たちに熨斗袋に入ったお祝いの金一封を差し出された。講師から逆に謝金を頂いたのは多分これがはじまり納まりであろう。私たちはいたく感動させられた。
イベントの当日は、結構大勢の参加者が集まった。多士済済の顔ぶれである。宮崎日日新聞社の社長さんの姿も見える。下山途中になって恐る恐る「社長さん。すみませんが今日シンポジウムを開くのでパネリストになってください。」と無謀にも突然にお願いした。「ええっ、今からですか」と氏はびっくりされた。けれども戸惑いながらも快く引き受けて頂き、ベストメンバーの講師陣で盛会のうちにシンポは終わった。その時のシンポジウムの記録が鉱脈社発行の「霧立越を語る」の本に掲載されている。
夢のまた夢
この時からシンポジウムは毎年霧立越シリーズとして開催するようになった。これを機に「霧立越の歴史と自然を考える会」が結成され、会員は歩道整備やシンポジウムの準備、霧立越のガイドなどに積極的に取り組むようになったのである。更に歩道の伐開を続け、測量のテープを引きながら距離を測定するなど整備を進めた。当初は五ケ瀬側の青年たちで結成していた「霧立越の歴史と自然を考える会」も椎葉村側からも参加者が現われて、副会長や理事としてリーダーシップを発揮してくれている。両役場からも歩道整備作業の際はいくばくかの費用を負担してくださるようになった。
以来、霧立越は多くの人たちに愛される道となり「エコ・ツーリズム《霧立越トレッキング》」「いにしえの歴史とロマンを探して2万3千歩の旅」が誕生し年間5千人もの人たちが歩いている。霧立越シンポジウムも昨年で7回を数え、これまで新しい品種のキリタチヤマザクラの発見や幻の滝の発見など、当初は予想もしなかった副産物を生んできた。新たなツーリズムの始まり霧立越は、このように不思議な大男「西郷どん」の訪れがきっかけで生まれたのである。
その後1度だけ西郷どんと出会った。霧立越トレッキングのガイドをしていた時、反対側から歩いて来る大男がいた。その男は、歩道の上部に立って私たちの集団をやり過ごしていたが私が近付くと「とうとうやったね」というしゃがれ声が聞えた。見上げると西郷どんだ。名刺を交したこともない。身分や経歴を尋ねることもなかった。以後、連絡が途絶えたままである。西郷どんは幻であったかも知れない。終わり。
1997.9.28
追記2001.6.16
やまめの里 秋本 治